AAR Japan
取材日:2018年4月
- Interview :
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AAR Japan
堀江良彰さん、古川千晶さん
日本生まれの国際NGOとして、テレビコマーシャルなどでもその存在が知られる『AAR Japan[難民を助ける会]』。
1979年にインドシナ難民支援を目的に発足し、活動地域を広げつつ、これまで60以上の国と地域で支援を届けてきた日本生まれの国際NGO団体です。フレクシェ社は2011年より、同団体への支援を続けています。
今回は目黒にある東京事務局を訪れて、事務局長(当時)の堀江良彰さんと一年半に渡るハイチでの活動やアフガニスタンでの地雷対策活動など数々の現場で支援に携わってきた古川千晶さんに、詳しい活動内容や支援の実態について伺いました。
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専務理事・事務局長(COO)※当時
堀江 良彰さん
国際的な運送会社に勤めた後、30歳の時にAAR Japanへ。以来、東京の事務方のスタッフとして業務をこなしつつ、短期の海外出張を繰り返し、40カ国以上で支援に携わる。現在は事務局長として、事務スタッフのとりまとめ、会の運営全般の統率を担う。
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事務局長補佐・プログラムマネージャー
古川 千晶さん
人材コンサルタント会社を経験をした後に国際開発を学びにイギリスの大学院へ。帰国後、AAR Japanの駐在員として2010年よりハイチでの支援を一年半担当し、その後もアフガニスタンやミャンマーなど、危険地域での活動にも携わる。現在は東京事務局での業務を担当。
日本生まれの
国際NGO団体
『AAR Japan[難民を助ける会]』(以下、AAR)とはどんな組織なのでしょうか?
堀江我々は難民支援や国内外での災害時の緊急支援をはじめ、障がい者支援、地雷対策、啓発活動などを中心に活動する国際NGO団体です。これまでに60以上の国と地域で支援を行い、現在もミャンマー、アフガニスタン、トルコ、ザンビア、日本など15カ国(2018年6月現在)で活動しています。最近だとバングラデシュでも2017年10月からミャンマー避難民支援を始めました。
会はどういった経緯で創設されたのですか?
タイ・カンボジア国境の難民キャンプで物資を配付する前会長の相馬雪香さん(左)
堀江前会長の相馬雪香がAARを創設したのが1979年のことです。1970年代後半は、インドシナ難民が発生していた時期でした。日本にもボートピープルと呼ばれる難民たちが来着していましたが、日本政府は一時的なケアは行うものの定住権を認めることには非常に消極的でした。そんな中、相馬はカナダ人の友人から「日本は難民を受け入れないし、世界の難民キャンプにいっても日本人のボランティアもいない。日本は冷たい国だ」という内容の手紙を受け取ったそうです。このままでは国際社会からも日本は孤立してしまう、と感じた相馬は民間の立場から難民を支援する市民団体を作ろうと一念発起して仲間を募り、会の発足を実現しました。当時は『インドシナ難民を助ける会』として設立されています。
個人の思いから始まった組織なのですね。
堀江その通りです。その当時集まったスタッフも完全にボランティアでした。立ち上げ当時は新聞記事にもなって、多くの人が活動に賛同してくれて、最初の四ヶ月で一億円もの寄附が集まったそうです。当時は日本に来た難民に勉強を教えたり、集めたお金を奨学金にしたり、海外の難民キャンプには看護師を派遣したり、他団体に金銭的な支援を行ったりしていました。
その後、活動の幅を広げていったのですね。
堀江難民の問題はインドシナだけではなく、アフガニスタンやパレスチナ、東アフリカなど、世界中にありましたので、1984年にインドシナに限らず世界中の難民を支援する団体として再出発し、会の名称も『難民を助ける会』に変更しました。その後活動内容も、難民キャンプの現場を見ることで支援が届きにくい層がいることに気づいて障がい者支援を始め、さらに障がい者が生まれる原因が地雷であるということから地雷対策も行うようになっていきました。
AARさんの特徴を教えてください。
堀江まずは日本で初めて生まれた難民支援を専門とする民間の団体で、政治・思想・宗教に偏らないということです。市民団体として、資金面でもできるだけ公的な支援に頼らず、できる限り多くの人々から支えられる団体でありたいという意識を常に強く持っています。
障がい児の教育環境を整える一環として、障がいについての啓発を行っている(カンボジア)
就学を支援している障がい児と現地職員、駐在員(タジキスタン)
フレクシェ社とAARさんの関わりを教えてください。
浦野AARさんに対しては2011年から寄付をさせて頂いています。きっかけは東日本大震災でした。他にも2013年、2015年には弊社が冠スポンサーとなったビリヤードの大会『フレクシェカップ』では会場の一角を提供し、ブースを設置して頂きました。これもAARさんのパブリシティに寄与できたと思います。
堀江フレクシェカップでは、それをきっかけに大会の司会を務めていた堀潤さん(ジャーナリスト・キャスター/元NHKアナウンサー)のラジオ番組(J-Wave『Jam the World』)にも出演させて頂きました。我々の活動を広く知って頂くのはとても大事なことですから、幅広い方々に関心を持って頂ける、有難い機会でした。
東日本大震災がきっかけ、とのことですが当時活動していた数ある団体の中でAARを寄付先に選んだ理由を教えてください。
浦野寄付先を検討するにあたって「今まさに助けを必要としている人たちに対して即効性のある活動ができる団体」というのがひとつの基準でした。
堀江当時多かったのが「義援金」という種類の寄付で、それは集まったお金を災害発生から半年程度が経った頃に被災者に平等にお渡しするものです。我々が受け取っているのは「支援金」で、今必要な活動のために使うお金です。
浦野それと政治的、宗教的な偏りがないということも重要なポイントでした。あとは災害発生からの初動も早そうだ、という印象も受けまして、それも理由の1つです。
堀江そうですね。やはり現地に行かないと本当の状況はわかりませんから。メディアやネットなどから受け取る伝聞の情報は必ずしも正確ではなく、不足もあります。現場も混乱していますから、すぐにその場に行ってやるべきことを見極めることが必要と考えています。東日本大震災の時も、翌々日には第一陣が現地入りしていました。東北では現在も障がい者の自立支援や原発の影響で避難している方々のサポートを中心に行っています。
浦野初年度のフレクシェ社の寄付は用途を東日本大震災に指定したものでしたが、その翌年からAARさんの全活動を対象とした寄付に変更して、毎年続けています。
国際協力の
現場に立つ当事者達
堀江さんは前職はどんなお仕事をされていましたか?
堀江私は運送関係の民間企業に大学卒業後から6年勤めていまして、海外に駐在するなど基本的に国際輸送の仕事をしていました。ですが、大きな組織の中にいるとなんとなく自分の将来が見えてしまい、それを変えようと30歳で仕事を辞めました。
そしてその後、なぜ国際協力のお仕事を選ばれたのですか?
堀江当時、日本で衣食住になんの苦労もなくすごしてきた私に対して世界中にいる不遇な人達を比べて「フェアじゃない」ということを感じ、ただ生まれた場所が違うだけでこんなにも格差のある現実をなんとか是正できないかということを考えていました。そんな思いもあってネットの検索でなんとなく「難民」と検索した時にAARが一番上に来たんです。そしてホームページを開いてみると職員募集のページがあり、「1年くらい経験してみよう」という気持ちで応募したのが最初でした。
その後、世界で難民支援などのお仕事をされているのですね。
堀江基本的にはずっと東京で勤務しておりまして、出張という形で難民支援や災害支援などを行ってきました。現在は事務局長として、事務スタッフの責任者として働いています。
古川さんはどうしてAARに?
古川私は子供の頃から「世界」とか「紛争」というワードには敏感で、国際協力の世界に興味を持っていました。私が小学生の頃にベルリンの壁が崩れたり、湾岸戦争があったり、という時代だったのも影響していると思います。高校生の頃にアメリカに中期留学をする機会があり、「平和学」という学問があることを知り、ますます関心が高くなっていきましたね。ただ、20代の頃は国際協力の道に進むことはなく、大阪で人材コンサルタントの仕事をしていました。当時は年収も現在よりずいぶん良かったのですが、堀江と同じく30歳の時に『自分のやりたいことを見直そう』と思い立ち、イギリスの大学院に国際開発学を学びに行ったんです。
それは国際協力の道に進むことを決めて?
古川もちろんそうです。そして修士論文を書いている時に就活活動を始めて、AARに出会い、面接の機会をもらって採用してもらうことになりました。それが駐在員での採用だったので、その後一年半、ハイチで活動していました。その後も危険地域にいくことが多いですね。アフガニスタンやミャンマーでの地雷対策などもしてきました。現在は東京での事務局業務が主ですが、緊急支援などの際には現地に行くこともあります。
堀江私も支援のスタート段階ではその後の活動の基礎固めのために出張することが多いですね。
ちなみにAARではどのくらいの方がスタッフとしていらっしゃるのですか?
堀江国内で言うと東京事務局に48名、佐賀事務所と仙台事務所にそれぞれ2名、海外では日本人の駐在員が31名と現地採用のスタッフが170名くらいいます。
浦野求人を出した時、応募者は十分に集まりますか?
古川応募自体は多いですよね。
堀江そうですね。ですが、採用してから辞退されることも多いです。他の団体に受かったとか、家族と相談して反対された、ということを聞きます。なにぶん、国連などで国際協力に携わる仕事と比べると待遇面は良くないですからね(苦笑)。
古川そうですね(苦笑)。
人数に対しては少し手狭なオフィスだ
築年数47年のビルの7階にある事務局
新卒での募集はされていないんですね。
堀江そうですね。人を育てる余力がない、というのが正直なところです。スタッフは民間企業の出身者や青年海外協力隊の経験がある人が多いですね。
浦野オフィスフロアを拝見したところ、女性が多いですよね。
事務局には無給のボランティアスタッフもいて、送付物の準備などの事務作業を行っている
たくさんの女性スタッフが活躍している
堀江6:4くらいで女性が多いですかね。家庭の収入を支える男性にとっては待遇面がネックになるというのが1つの理由ですが、AARは創設者も現理事長も女性で、女性が活躍しやすい組織だとは思います。
古川ただ、事業国によっては性別は重要な要素の一つで、例えばイスラム圏では女性の社会での役割が限定的であることが多いため、事業に関する折衝や議論を行う場合は男性の方がやりやすいかもしれません。ただ、それを理由に男性だけの職員を派遣すると、女性の声を拾うことは極めて難しいです。例えば、事業を策定するために調査を行う際も男性職員だけでは、女性から話を聞くことはできません。でも、本当のニーズは声を出せない人たちが持っているものです。なので、支援の世界では男性と女性がいて、同じように活躍していくことが望ましいですね。
危険も伴う、
価値ある活動
地雷対策というと具体的にどんなことをするのですか?
『地雷ではなく花をください』シリーズ 全巻
堀江内容としてはいくつかあります。まずは一番わかりやすいところで言うと、地雷の除去ですね。これは技術が必要ですし、危険も伴うことなので我々が直接行うのではなく、イギリスの『The HALO Trust』さんなどと協力して行っています。このほか地雷被害者の支援や、絵本(『地雷ではなく花をください』)を通じての啓蒙啓発活動です。絵本の純益は地雷対策活動に活用しています。
古川現地では地雷の回避教育も行っています。村々を回って、地雷による事故に遭わないようにするための教育を行っています。例えばアフガニスタンで言うと、地雷の数は1000万個以上とも言われています。国内全域が地雷で汚染されており、除去活動によって地雷がゼロになることもずいぶん先でしょう。だから彼らにとって地雷は共存しなきゃいけない存在なんですね。地雷原の横でいかに安全に生きるか、ということは日本で言うところの交通安全のようなものなんです。
浦野地雷原がすぐそばにある中で安全に生きるためのコツは何なのですか?
古川例えば戦車のそばにはいかない、とか明らかに砲弾などで廃墟になっている施設には近づかない、などは大原則ですね。あとは地雷原を示す、国際基準のマークがあるんですよ。例えば白い石が並んでいると、そのエリアは地雷の除去が済んでいる場所だ、とか赤い石が置いてあるとこの先は地雷原だ、という具合です。ちなみに青い石が並んでいると不発弾があることを示します。ローカルマークなどもあるのですが、そういった情報を知ることですね。
地雷除去活動をしているそばを通って水汲みに向かう子どもたち(アフガニスタン)
地雷の被害から身を守るための知識をポスターなどを用いて伝えている(アフガニスタン)
浦野石で危険なエリアを示すのですか。先日、社員旅行でカンボジアへ行ったのですが、そういった知識を事前に持っていると旅先の風景の見え方も違ってくるでしょうね。
堀江カンボジアだと石ではなく、ドクロマークが示されています。国によってそういったマークも違っていて、例えば熱帯地域だと石ではなく木の棒で示しますね。アフガニスタンなどの乾燥地域で石が使われるのは、木が刺さっていると抜いて薪にされてしまうこともあるからです。その地域で誰も価値を認めないものを使って地雷原の印とするのが原則ですね。
AARの地雷対策はどのくらいの成果を上げているのですか?
古川1999年から地雷対策を継続しているアフガニスタンで言うと、2018年2月までに東京ドーム560個分の広さの土地の安全を確保し、地雷4,856個、不発弾22,310個の除去を行いました。地雷回避教育は873,956人に対して行ってきました。
浦野素晴らしい実績ですね。
クラスター爆弾の子爆弾。こうした子爆弾が数百個入った親爆弾が空中で爆発し、広範囲に被害を及ぼす
(奥)杭を地面に打って仕掛け、信管に取り付けたワイヤーが引っ張られると爆発する仕組みの地雷。(手前)手りゅう弾
こうしたお仕事をされていて、苦労することは何ですか?
堀江私は会の経営、といいますか資金面のやりくりですね。我々は現在15カ国で活動していますが、逆に言うと15カ国でしか支援をできていないんです。現地に行っても、助けを求めている人の数は膨大で、ほとんどの人には支援を届けられていないというのが実情です。支援をしに行っている、というよりも支援を受けられない人を決めているような気さえします。現地に入ると国連や他のNGOもいるので、彼らと調整しながら支援の漏れやムダ、ムラがないように努力するのですが、十分な支援ができていないと感じることばかりです。まだまだ支援が足りていないと思っています。
活動資金は主に寄付に頼っているのでしょうか?
堀江個人や法人など、たくさんの方々に支えて頂き、チャリティグッズの販売やコンサート収入なども活動資金としていますが、日本政府からの補助金の割合が大きいです。海外のNPOと比べると寄付金の規模が小さいんです。私どもも今ではACジャパンのテレビコマーシャルの効果で認知度が上がり、活動もしやすくなりつつありますが、日本ではNPO法人全体に対する不信感を持っている方が多いです。一部で不正があった影響で、全体が怪しいと思われてしまっていると感じます。社会的な位置づけも低いですね。欧米ではNPOやNGOであっても政府などに対して対等にもの申せるような関係性を作ることができていますが、日本ではまだまだです。公的な資金の割合を少なくしていきたい、と申し上げましたが実際はかなり大きくなってしまっています。お金の依存が増えると、市民団体としての独立性を保つのが難しくなってしまいます。
浦野資金の提供元である省庁からなにかAARさんへの要求を出されることはありますか?
堀江基本的には我々は独立した団体で、省庁から指示を受ける関係ではありません。とは言え、先ほども申し上げたとおり、資金の依存と独立性は相容れないので、できる限り民間からの資金を増やしていきたいですね。
古川さん、特に支援活動の現場で大変なことは何でしょうか?
古川特に海外に行った時の身の安全ですよね。戦闘が行われているさなかで活動することはありませんが、病気や事故などもありますし、誘拐や強盗などの危険があることも否定できません。私自身も危険に遭遇したことがあります。
浦野大変なお仕事ですねぇ。そんなとき、活動を続けることが嫌にはならなかったですか?
古川やはり以前よりは怖がりになりましたね。というか、怖がりくらいがちょうどよいと思っています。最後に自分を守れるのは自分だけですから、安全に関する専門的な訓練を受けるなど、事件や事故に巻き込まれないよう、あるいは巻き込まれたとしても迅速に対処できるように備えています。
堀江過去に病気や天災で亡くなったスタッフもいますし、この仕事をしていて一番多いのは交通事故ですね。安全確保は我々の重要な仕事です。この身の安全があって初めて支援ができますから。
古川あとは過去に物資を配布した際に暴動が起きたことがありましたね。届けられる物資に限りがあることは事前に伝えていたのですが、それが行き渡っておらず、結局「少ないじゃないか!」とみんな怒りだしてしまって……。これは我々の失敗でもあるのですが、本当に怖かったですね。
堀江多くの人が集まる場での物資配布をいかにスムーズに行うかは活動の中で難しいことの1つですね。例えば物資は限られていて障がい者のいる世帯だけ、女性が世帯主の世帯だけ、などの制限を設ける時、もらえない人が暴動を起こすことが予想されるので、配布場所には事前に渡したクーポンを持った人だけが入れる、などの工夫もしています。
浦野なるほど。たくさんの活動実績を重ねるとそういったノウハウも蓄積されていくのですね。
そんなに危険な思いをしてもこの仕事を続けられる古川さんの原動力は何なのでしょうか?
ネパール地震被災者緊急支援で物資を手渡す古川千晶さん
古川やはり、現場をこの目で見てしまうと……。私の最初の活動先であるハイチの孤児院で生まれたての赤ちゃんが野ざらしにされていたんです。テレビや写真で知っていたはずのものとは全く異なる生々しさがあったんですよね。そしてその日の夜に集中豪雨があり、「それでもあの赤ちゃんは野ざらしなんだろうな」と思いました。そういった光景が頭の中にこびりついているんですよね。あの光景を見てしまうと、辞めようとは思えないです。
活動の中で難しいことってなんですか?
古川私たちがよく使う言葉で“Do no harm(害を及ぼしてはならない)”というものがあるんです。支援のために現地に行っているはずなので、そこで支援活動がきっかけとなり現地の社会に悪影響を及ぼす、ということが一番してはいけないことですが、難しいことでもあります。
それは具体的にどういうことでしょうか?
古川例えば災害があった時に大量の人々が逃げ込んだコミュニティがあるとします。そこの人々はやはり、自分たちがそれほど豊かでなくても目の前に困っている人がいれば支援したいと思うもので、トイレを提供したり、井戸も自由に使わせたりするものです。ですがそうしているうちにトイレが壊れたとか井戸の水が枯渇した、なんてこともあります。そこで支援団体が被災者しか助けない、となると被災者と現地の人々の間で対立も起こります。これはあくまで一例ですが、そういったことが起きないように工夫するのは大変ですね。
対策としてはどんなことがあるのですか。
古川まずは支援団体間での調整ですね。1つの難民キャンプにも多くの支援団体が駆けつけるわけですが、その中でどの団体がどこでどんな支援をするのか、調整をしないと間違いなく一カ所に支援が集中したり、逆に支援を受けられない人が増えたりするでしょう。日本でも東日本大震災の時に、物資が足りない方々がいる一方で食べ物が大量に余っている、ということが起こっていましたよね。目の前に寒そうな人がいたから毛布を上げる、飢えた人がいたからパンを渡す、といった場当たり的な行動ではなく、我々はプロとして他の支援機関と様々な方法で調整し、確実に効果のある支援をしなくてはいけないんです。
避難してきたばかりの南スーダン難民に生活用品などを手渡しで配付する(ウガンダ)
学校給食支援を行った学校の子どもたちと駐在員(ラオス)
調整というのは支援団体で話し合ってやるのですか?
古川主に国連と現地の政府がとりまとめてコーディネーションをします。ただ、政治的な背景から、そのコーディネーションがうまく機能していない場合もあるので、我々はその間でどちらの意見も聞きつつ、現場の声も聞き、ニーズを支援に反映していかなくてはならないのですよね。
古川さんが支援活動の中で大事にしていることはなんでしょうか?
古川海外に行くと我々は外国人で、支援をしに来ているとなると、どうしても現地の人々との間に力関係ができてしまうんですよね。ただ、とくに現地の職員は私たち以上に現地のことをよく理解していて、支援活動を安全に効率よく行うには欠かせない存在です。そう考えると「支援をしにきてやったぞ」というのは当然お門違いの思考で、「支援をさせてもらっている」んだと思うんですね。そういう気持ちはずっと持っています。そうでないと支援を行う側は必ず間違った方向に進んでしまうと思いますね。
世界の人々を助け、
日本をも救う
今、国際協力に尽力されているお二人が、日本人に伝えたいことを教えてください。
堀江自分自身もそうだったのですが、日本で普通に生活していると、「日本が良ければそれで良い」という錯覚に陥りやすいと思うんです。ですが、日本は世界との関係性なくして成り立ち得ない国ですし、海外のことも意識の中において行動しないと、我々自身にもマイナスになります。日本という壁の中にいるのではなく、扉を開いて、海外で困難な状況にある人たちのことを知り、解決しようという意識をもたないと、いずれは我々の生活も脅かされることになる、という意識がもっと高まるとよいですね。
古川そうですね。日本は災害の多い国ですから、外国から助けてもらわないといけない機会って必ずあるんですよ。「よその国へ支援する前にまず自分の国じゃないんですか」というご意見を頂くこともありますが、堀江の言うように、結局のところ周りの国を助けることが自分たちを助けることにもつながってくると思っています。
浦野情けは人のためならず、ということですよね。
古川そうですね。最近の若者が海外離れしている、といわれますが、まずは世界に関心を持つことが大事なんじゃないかなと思いますね。ひいてはそれが日本を知る、ということにもなります。
なるほど、ありがとうございます。AARさんを支援したいと思った時、我々はどんなことができるのでしょうか?
堀江いろいろな形で、活動にご参加頂けます。まずご寄付があります。どの事業に、あるいはどこの国での活動に、という具合で用途を指定して頂くことも可能です。マンスリーサポーターという毎月のご支援をいただく方法もあります。あるいは絵本やチャリティグッズをご購入頂けると、その純益が活動費に充てられます。
浦野チャリティチョコレートというのもあって、私もフレクシェカップでそれを200個配って歩きました。
堀江古本やDVD、貴金属の買い取り金額が寄付になる「BOOK募金」、「お宝エイド」といった方法や、未使用切手や書き損じハガキなどの寄付も有難いですね。このほか講演会に講師として呼んで頂くこともあります。7,000円以上のご寄付と実費のお支払いをお願いしますが、「障がい者」とか「ザンビア」とか、テーマをいただければそれに沿った経験を持つスタッフを派遣しています。
チャリティグッズの一例
チャリティチョコレート
どんな場所に呼ばれて講演をすることが多いですか?
古川小学校から大学、専門学校などの授業も多いですね。あとは海外展開されている企業さんだと、展開先の地域の実情をお話することでその後のビジネスモデルの形成に役立てて頂いているようです。
堀江あとはチャリティコンサートや駐在員の報告会などのイベントを開催しておりまして、チケット代や参加費を活動費に充てています。またボランティアの方も随時募集しています。
東京事務局で子ども向けに国際協力への理解を促すイベントを開催
専門家を招いてのシンポジウムなども行っている
ボランティアというとどんなことをするのですか?
堀江事務局での会報や領収証の発送などの事務作業が多いですね。あとは国際協力イベントへのブース出展やチャリティバザー、フリーマーケットなども行ってくださっています。今は100名くらいの方にボランティアとして活動して頂いています。
なるほど、いろいろな応援の仕方があるのですね。
浦野AARさんがやられていることは「本来は我々ひとり一人が直接やるべきこと」だと私は思っているんです。ですが実際はそれぞれ仕事や生活もありますので、本当に現地に行って活動することはできません。フレクシェ社は寄付などの形によってそれをプロに代行してもらっている、という感覚を持って支援しています。ぜひ今後とも、我々に代わって活動を続けて頂けますよう、よろしくお願いします。
堀江ありがとうございます。こちらこそ、よろしくお願いします。
古川そういって頂けるとやはりうれしいですね。頑張ります。
AAR Japan 広報・支援者担当
小川祐子さん
「子供の頃から国際協力の仕事に関心がありました。自分はたまたま生活に不自由のない環境に生まれたが、一方で世界には機会さえあったら自分よりもずっと力を発揮できる人がいるのにそれが可能な状況にいないということを思うと、自分に与えられた環境で『なにかしなくてはいけない』と考えていました」という小川さん。
大学院終了後公務員として就職した後、AARに転職。現在は支援者からの問い合わせや依頼の対応、寄付への礼状や活動報告の作成などを担当し、現地の方々の状況や駐在員の思いを支援くださる方々に伝えています。
「当会のホームページでは、私たちの活動現場でどんな方々にどんな困難があるのかをお伝えしています。まずはそれらをご覧いただき、そしてそうした方々を支えたいと思って頂けましたら、ぜひご寄付をお願いします。例えば5,000円集まれば戦闘の続くシリア国内に留まる一家族に半月分の食料を届けることができます。皆様のお気持ちは確実に、いま支援を必要とする方々の希望となります」。